「平和主義」の自己矛盾

平和主義を実現するためには反対派と闘争しないといけないので、そもそも平和「主義」の存在が自己矛盾

つまり憲法9条とかも自己矛盾

  • クレタ人は嘘つきだ」とクレタ人は言った
  • 「平和を主張する」と平和主義者は主義の闘争をした

最初にこれに気がついたのはmixiのマイミクでした
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=64295808&comm_id=17&__from=mixi
なるほどと思った

そもそも「平和」という言葉の由来もちょっと怪しい?

http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/540.html
から引用

「平和」は、明治新政府ラテン語のPax(英語のPeace)の対訳に
適当な日本語として採用した、古くからある漢語
「和平(平らげて和やかにする)」を倒置し「平らげられて和やかな状態」
という意味を持たせた造語である。
世界史でPax Romanaを「ローマの平和」と習うが、
ちゃんと書けば「ローマ帝政の支配にもとづく平和」であり、
冷戦期のPax Americanaなどは「アメリカの覇権(脅威)による平和」だ。
ならば「平和」には必ず支配者が要るということになる。
これで「平和」が急に嫌なことばに見えてくるのは筆者だけではないはずだ。
耳障りな「支配」ということばを「統治」「制御」「執政」「管理」
などと言い換えたところで何も変わりはしない。
平和を保つには支配者が必要である。
しかし支配される側の人間は支配者を選べないのである。歪みの根はこれなり。

「平和」にあたる語句を日本の祖先が話した「やまとことば」のなかに見出す。
同意とは言い難いが「やす」がそれを包括するだろう。
休む、癒す、治す、などの動詞の原型が「やす」である。
漢字をあてると、安、泰、康、保、易、寧、靖、恭、などがある。
それぞれ少しずつ違いをもつが大意はおなじくして「争いや病や波風のないさま」である。「やす」は、天と人と地の間で保たれる均衡とでもいうべき
崇高な言葉で、戦火で焼き尽くし軍靴で平らげた
「平和」とはそもそも格が違う。

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